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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

04.能登守護吉見氏

見一族が能登守護の地位にあったのは、史料で確認出来る限りでは、建武3年(1336)の吉見宗寂に始まり、頼顕頼隆と続いて、永徳3年(1383)の吉見氏頼まで約45年間です。人物毎の在職期間をまとめると以下のようになります。

  • ●吉見宗寂(実名不詳も頼為か):建武3年7月〜?
  • ●吉見頼顕:建武3年8月〜?
  • ●吉見頼隆:建武4年1月〜貞和2年閏9月?
  • 尚、吉見頼隆は建武3年12月から建武4年4月の間、越中守護を建武していた事が確実である。

  • ●吉見氏頼:貞和4年〜?、文和元年閏2月〜永徳3年7月?
  • 先ず、建武3年7月28日、吉見宗寂は永光寺に対して若部保地頭職の安堵状を発給しており、一応これが守護権限行使の最初と見られます。その肩書きには後の書入れとしても「能登太守日園寺」と注記されており、また、永和2年9月の『永光寺布薩廻向人数注文(永光寺文書)』でも「宗寂 故守護入道殿「「玄喜 故守護入道殿内室」と記されていることから、能登守護であったことは確実です。宗寂は実名を欠いていますが、吉見頼為に比定出来るかと思います。(頼為は次ぎに守護となる頼顕の父に当たる。)

    次ぎに、その1ヶ月後の8月25日、吉見頼顕が気多本宮の免田に対する狼藉の禁制を発令し(気多社文書)、永光寺に若部保地頭職の安堵状を発給しています。(永光寺文書)、理由は不明ですが、この1ヶ月の間に能登守護は宗寂から頼顕に交替したことになります。

    ●『氣多社文書』●
    能登國氣多本宮所々免田、令停止地頭甲乙人等狼藉、スルヲ停メ、可専神役、若於違犯之輩者、可有罪科之状件如、
        建武三年八月二十五日            源頼顕(花押影)
           氣多社衆徒御中

    尚、『新葉集』には源頼為作の和歌が収録されているが、この源頼為は吉見頼為であるとされる。新葉集は後醍醐天皇の皇子宗良親王撰による準勅撰和歌集であるが、注目すべきは南朝歌人の和歌集だということである。つまり、吉見頼為が南朝に属していたことを示唆するもので、当初は足利尊氏の与党として能登守護の地位に就いたものの、南朝方に寝返った為に短期間で解任されたとも考えられる。

    翌建武4年1月には、吉見頼隆が諸岡寺に対して寺領安堵の書下状を発給しており、頼隆の能登守護就任が確認されます。頼顕から頼隆への守護交替も理由は分かりません。ただ、頼隆は建武2年5月26日付けの書下状において、吉見宗寂に『石見国吉賀郡志目河村』の支配を任せていることから、能登吉見氏の惣領であったと思われ、それ故に能登守護の地位を得たとしか考えられません。(吉見頼顕はその後も活躍していることから、少なくとも一族の中で争いのような事があったわけではないと思います。)頼隆の守護在任は貞和2年(1346)閏9月の得田章名宛て軍忠証判まで確認出来ますが、その後貞和5年7月には桃井兵部大輔盛義が軍忠証判を与えており、この間に頼隆は能登守護を解任されたようです。

    桃井盛義が能登守護に在任した時期は、『観応の擾乱』によって幕府内部の亀裂が深まり、その影響が地方の武士団の去就を左右していました。能登においても例外ではなく、富来一族や前越中守護井上氏の残党等が足利直義と結び、南朝方の越中守護桃井直常も能登に侵攻しました。この時期、吉見氏頼が守護であるかのような史料が見受けられますが、こうした混乱が原因であるのかもしれません。

    吉見氏頼の能登守護就任は、文和元年(1352)2月の足利義詮下文によって明らかとなります。

    ●『足利義詮下文』●(得田文書)
    能登國地頭御家人、参御方致忠節輩所領事、早就註進状可被下安堵御下文之状如件
       文和元年閏二月            花押(足利義詮)
        吉見三河守殿(氏頼)  

    この後、少なくとも27年間、氏頼は能登守護の地位にあり、国内の反幕府勢力の掃討に力を注ぎました。氏頼の守護在任については康暦元年(1379)の得田氏宛て軍忠証判を最後に確認が出来なくなるとされていますが、

  • @永徳3年7月、氏頼は得田氏の知行を治田氏が違乱するのを、吉見伊予入道に下知して停止さ せている。吉見伊代入道は能登守護代とみられる。
  • A永徳3年11月、氏頼は得田章房に越後国小河荘内の地を宛行い、能登守護復帰後(と解釈出 来る)に得田荘内の土地の還付を約している。
  • ことから、永徳3年まで守護に在任していたと考えられます。氏頼が能登守護を解任されたのは、康暦の政変における細川頼之の失脚や本庄宗成との能登守護職を巡る確執が少なからず影響したものと思いますが、根源的には幕府権力確立のために、足利一門を諸国守護に据えようとした足利義満の専制化政策の犠牲になったものと考えられます。