■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルのロゴ

トップ>>サイトマップ>>能登吉見氏の系譜と事歴>>現在のページ

■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

05.新田残党軍の討伐

元元年(1336)10月、後醍醐天皇が独断で足利尊氏の講和条件に応じて比叡山を下ると、新田義貞は朝敵になりかねない微妙な立場に追い込まれました。そこで10月10日、義貞は尊良・恒良の両親王を同行させることで官軍としての体面を保ちつつ、越前国敦賀の金ヶ崎城へ落延びました。そこで足利尊氏は諸国に新田義貞討伐の御教書を発し、翌延元2年1月から金ヶ崎城で両軍の戦闘が始まりました。足利勢の大軍に包囲された城は、3月6日に落城し、義貞の嫡男義顕と尊良親王は自害、恒良親王は捕らえられ、新田義貞・脇屋義助兄弟は瓜生の杣山城(福井県南条町阿久和)に逃れました。

杣山城で再起の機会を窺っていた新田軍は、延元2年暮れから翌年初春にかけて破竹の勢いで反撃に出て、越前国府(武生市)で越前守護斯波高経の軍勢を破り、勢力を回復しました。しかし7月2日、新田義貞は50騎を率いて足羽七城(足羽郡)の藤島砦攻略の援軍として駆けつける途中、黒丸城から打って出た斯波軍300騎と遭遇し、遂に灯明寺畷で討ち取られます。この一連の合戦に吉見氏は参加していませんでしたが、能登の国人得江頼員が従軍したことが知られています。吉見頼隆が援軍として派遣していたのかもしれません。

新田義貞亡き後、弟の脇屋義助が新田軍を統率して頑強に抵抗を続けた結果、延元4年(1339)3月から暮れまで、北朝方の拠点木田城(福井市)を中心とした地域で一進一退の攻防が続きました。こうした膠着状態の打開の為、恐らく幕府から要請があったのでしょうが、暦応3年(1340)3月、能登守護吉見頼隆は得江氏・土田氏・高田氏・長井氏・岡部氏・天野氏等の能登勢を率い、越前に侵攻しました。

●『得江九郎頼員申越前國軍忠事』●(得江文書)
今年(暦應三)三月七日、奉屬吉見十郎三郎(頼隆)殿御手、押寄莇田城致合戰忠節之條、長井藤内左衛門尉見知訖、(以下略)
   暦應三年七月日     承了(花押)(吉見頼隆)

この越前における新田残党軍との戦いは、年を越えて翌年7月まで1年以上に及びました。その間の吉見軍の動向を得江文書・天野文書で見てみると次の通りです。

(暦応3年)
3月7日吉見軍、莇田城(今立郡か?)に攻め寄せる。
3月8日吉見軍、芝原口に向かう。
3月14日吉見軍、相槻渡(福井市の東)にて南朝軍と交戦。
7月11日西方寺の南朝軍(由良越前守光氏)、木田城に押寄せる。吉見軍、これを春日宮前で迎え撃つ。

吉見頼隆の軍勢は斯波高経軍と合流し、金津を皮切りに南朝軍を次々と攻略し、北陸道を南下して行きました。

8月1日吉見軍・斯波軍、越前国金津・上野(坂井郡)で南朝軍を破る。次いで少蓮華宿の南朝軍を撃破し、付近を焼払う。
8月3日吉見軍・斯波軍、三国湊に進攻し、千手寺城大手及び西面で合戦し、落城させる。
8月17日吉見軍・斯波軍、藤島の丸岡に向城を築き、黒丸城の脇屋義助と対峙。城から打って出た脇屋軍を撃退する。
8月20日吉見軍・斯波軍、黒丸城大手に攻寄せ、落城させる。
9月12日吉見軍・斯波軍、氏江岡に陣取る。
9月13日吉見軍・斯波軍、府中から南朝軍を追払う。
9月14日吉見軍・斯波軍、妙法寺麓を焼払う。
9月22日吉見軍・斯波軍、大塩城に夜討を仕掛け、城麓を焼き払い落城させる。
9月23日吉見軍・斯波軍、松鼻城、妙法寺城及び脇屋義助の立て籠る平葺陣を落城させる。脇屋義助は美濃に落延びる。
10月19日吉見軍・斯波軍、畑六郎左衛門尉時能の拠る畑城に押寄せ、交戦する。
10月21日吉見軍・斯波軍、畑城の一ノ木戸、二ノ木戸を破り、城麓を焼き払う。
10月26日吉見軍・斯波軍、畑城を攻撃し、翌日畑時能が降伏。城郭を破壊する。
10月27日吉見軍・斯波軍、糸崎城の南朝軍を降伏させる。

(新田残党軍討伐関係地図 青字は前年の戦場その他の城)
新田残党軍討伐関係地図

この後、一旦戦況は小康状態を保ったようで、翌暦応4年(1341)正月から戦闘が再開されます。

●『得江九郎頼員申越前國軍忠事』●(得江文書)
奉屬大将吉見大蔵大輔殿(頼隆)御手之處、今年(暦應四)正月廿九日、於鯖波、脇本、大鹽致合戰忠節、同日二峯城凶徒等寄來八王子城之間、爲後攻馳向彼陣致戰功、追歸御敵訖、(以下略)
   暦應四年七月日     承了(花押)(吉見頼隆)

(暦応4年)
1月29日吉見軍、鯖波・脇本・大塩で南朝軍と交戦。また、二峯城の南朝軍が八王子城に攻め寄せたので、得江頼員は後詰めとして八王子城に向う。
1月30日二峯城の南朝軍が瓜生を焼き払い、再び八王子城に攻め寄せるが、吉見軍がこれを撃退。
2月6日南朝軍は帆山(武生市)に城を構えるが、翌日吉見軍が攻め落す。
3月2日南朝中院右中将、得江頼員を南朝方に誘う。
4月2日吉見軍、脇本・大塩に押寄せ、麓を焼き払う。
4月4日二峯城麓において南朝方と交戦し、麓を焼き払う。
4月18日二峯城麓において南朝方と交戦する。
4月25日二峯城麓において、城から打って出た南朝方と交戦し、敵を城中に追い込める。
5月14日二峯城の南朝軍が八王子城に攻寄せる。瓜生城にいた得江頼員が援軍として出陣する。
6月25日吉見軍、鯖波・杣山城等を攻め、落城させる。
6月26日吉見軍、大瀧城を攻め、28日に落城させる。

こうして越前の南朝軍はほぼ一掃され、残るは鷹巣城(福井市高須町)に拠る畑六郎左衛門尉時能のみとなりました。7月23日、吉見頼隆の軍勢は鷹巣城に攻め寄せ、城麓に布陣しました。吉見頼隆・斯波高経を始めとする北朝方の大軍に包囲された畑時能は、10月になり、少数の手勢を鷹巣城に残し、自らは伊地知山(鷲ヶ岳,勝山市)へ移動しましたが、遂にここで討ち取られました。