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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

06.第1次井上俊清討伐

前における南朝方掃討の恩賞として、斯波高経は越中守護に任じられます。しかし、越中国司中院定清を滅ぼし、北朝方として功績のあった前守護井上譜門俊清は、当然この処置に納得せず、遂に南朝方に寝返りました。そこで幕府は康永3年(1344)10月25日、吉見頼隆に対して、能登の地頭・御家人等を催し、井上俊清を討伐するよう御教書を発しました。『得江文書』には、御教書を受けた頼隆が、能登国人得江頼員に参陣を求めた文書が遺されています。

●『得江文書』●
爲對治越中國凶徒、相催能州地頭御家人等可發向之由、去月廿五日被成御教書之間、今月廿日所進發也、任被仰下之旨、可被下向之状如件
    康永三年十一月十六日       大蔵大輔(花押)(頼隆)        得江九郎殿

康永4年3月7日、吉見頼隆は井上俊清討伐のため、能登勢を率いて越中へ発向しました。7月11日、高槻要害(富山市水橋)及び滑河に井上勢が来襲して合戦となり、吉見勢は井上勢を撃退しました。その後戦闘が行われたのかは史料がなく判りません。吉見勢では、頼隆の子息氏頼が越中に残り、井上俊清を牽制していたものと考えられます。

貞和2年(1346)3月6日、井上俊清は一族の八条殿・新田式部権少輔貞員・栗澤弾正忠政景と共に能登に侵入し、南朝方の富来彦十郎俊行が拠る木尾嶽城に立て篭りました。これに対し吉見氏頼を大将とする吉見勢が越中から発向し、木尾嶽城へ攻め寄せました。

●『得江九郎頼員軍忠事』●(得江文書)
右越中國凶徒井上宮内權少輔俊清與同八条殿、并新田式部權少輔貞員、栗澤弾正忠政景、冨來彦十郎俊行以下輩、今年(貞和二)三月六日、令亂入當國、依楯籠冨來院内木尾嶽、爲對治之大將吉見掃部助(氏頼)殿、自越中國御發向間、屬彼御手、同十六日攻寄城郭、致合戰忠節訖、(以下略)
    貞和二年五月日
                 承了(花押)(吉見氏頼)
木尾嶽城

合戦は3月16日に始まり、18日には城の大手において激戦となり、得江頼員自身も左肘に矢疵を負っています。その後も23日、25日と断続的に戦闘が行われ、5月4日漸く吉見軍は木尾嶽城を攻略、敗れた井上俊清等は越中松倉城(魚津市)に逃れました。(右の写真は木尾嶽城址の麓にある「木尾嶽城址碣」)

こうして井上勢を能登から撃退したものの、井上俊清の本拠松倉城は天険を利用した要害で、その支城も含め攻略することは容易でなかったようです。得江文書によれば、翌貞和3年(1347)7月にも、吉見氏頼は桃井直常と共に井上俊清を松倉城及び水尾城(魚津市)に攻めましたが、水尾城を攻略しただけに終わっています。(この合戦については、貞和4年である可能性があり、判明次第訂正します。)

貞和4年、井上俊清が松倉城において再度挙兵すると、足利尊氏は桃井直常を新たに越中守護に任命し、井上俊清討伐を命じました。この時吉見氏頼も軍勢を率い、越中へ発向しています。吉見・桃井の連合軍は、約1ヶ月の激戦の末、10月12日松倉城を攻略し、井上俊清は内山城(下新川郡宇奈月町)にへ逃れました。尚、この時井上俊清に協力していた新田貞員は生捕られ、斬殺されたようです。氏頼は内山城へと敗走する井上勢の追撃を続けました。