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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

07.観応の擾乱と能登吉見氏

和4年(1348)正月、高師直・師泰兄弟率いる北朝方は、前年畿内で反乱を起こした楠正行・正時兄弟を四条畷において滅ぼしました(四條畷の戦い)また、高兄弟は、南朝の本拠吉野を陥落させ、関東から南朝勢力を一掃するなど、軍事的な大功を立てて、幕政の中枢に参画するようになりました。このことは、元々政治思想に違いのあった足利直義との不和を一層拡大させることになります。(既に1342年頃には両者の不和は表面化していた様です。)

翌年、高師直の台頭に危機感を抱いた足利直義は、上杉重能・畠山直宗をして尊氏に対して師直に関する讒言を入れさせました。これが功を奏し、6月3日尊氏は師直を執事職から罷免しました。すると高師直は河内国から弟師泰を呼び寄せ、8月13日、武力クーデターの挙に出たのです。光明寺において直義を破った高師直は、尊氏邸に逃げ込んだ直義を、尊氏共々大軍で包囲しました。師直は直義派の上杉重能・畠山直宗の引き渡し(後に尊氏により越前へ配流)及び、直義の出家(つまり幕政から退くこと)を条件に和議を結びます。こうして高師直は足利直義の排除に成功しました。

観応元年(1350)10月16日、直義の猶子足利直冬(実は足利尊氏の庶子)が九州で挙兵しました。続いて26日、足利直義は兄尊氏と決別し、大和へ下って南朝と和議を結びます。このような、尊氏・師直対直義の対立に、更に南朝勢力も絡むという幕府内部の複雑な分裂状態は、各地方に影響を与えました。

観応元年10月、越中の井上一族や富来氏等能登の一部の武士団は足利直義と結び、直義派の越中守護桃井一族も呼応して、一斉に能登へ侵攻しました。また、この前後、吉見頼隆が能登守護を罷免され、新たに桃井兵部大輔盛義が能登守護に任命されました。(桃井盛義は直義派の越中守護桃井直常と同族で、後に扇一揆と呼ばれた武士団の一員。ただし、史料からは一貫して尊氏派として活動していたことが明らかです。従って吉見頼隆の罷免には、あまり政治的な要因はないようです。)

10月20日、越中を発した桃井等の軍勢は、能登侵攻の拠点とすべく氷見湊に向い、23日これを制圧しました。得江一族は所領の志雄越山の警固を強化すると共に、越中勢と度々交戦しました。

戦闘関係地図

11月3日直義派の井上布袋丸・富来彦十郎等、富来院(木尾嶽城)より花見槻(鳥屋町花見月)に攻め寄せる。能登守護方これを迎え撃つ。
11月4日直義派の軍勢、飯田宿(鹿西町井田か?)に陣取る。能登守護方の軍勢、飯田宿に押寄せ、直義派を撃退する。同日、守護桃井義綱(盛義)、京都より到着する。
11月19日桃井兵庫助直信が数千騎を率い越中から能登に侵攻、高畠宿(鹿西町高畠)に布陣する。
12月1日直義派の軍勢、得江氏の領内志雄保に攻め寄せ、得江石王丸の代官長野季光がこれを撃退する。
12月13日能登守護桃井盛義、金丸城に立て篭る。桃井直信の軍勢、金丸城に攻め寄せ、長野季光が城から出て応戦し、撃退する。

(観応2年)
1月23日桃井盛義、里見彦七に直義派の羽田城を攻撃させる。

こうした中、足利尊氏は九州・中国を拠点に叛旗を翻した足利直冬(尊氏の庶子で、直義の猶子)討伐の為に西下しますが、その隙をついて足利直義は京都を脱出して南朝に降り、これに桃井直常・畠山国清等が従いました。次第に勢力を増した直義派は、遂に足利義詮を京から追放し、観応2年2月17日、中国遠征から戻る途中の尊氏軍を摂津において破ります。敗れた尊氏は、高師直・師泰兄弟の出家を条件に、直義と和睦しました。(高兄弟は京都への護送途中に、直義派の上杉能憲によって殺害されます。)しかし、既に尊氏と直義の関係は修復出来ないところまで達していたようで、7月19日には、義詮との不仲を理由に直義は京都を出奔しました。その後、直義は桃井一族等与党の多い北陸へ向い、更に勢力を拡大して行くことになります。

このような直義派の勢力拡大は、尊氏にとって無視出来ないものだったのでしょう。この時期、得江石王丸得田素章等能登の武士団に対し、尊氏方への参集を求める御教書が発せられています。この時吉見氏頼は得江一族と共に赤蔵山に立て篭り、桃井直信率いる越中勢と1ヶ月に亘る激戦を展開していました。

●『得江文書』●
得江石王丸代長野彦三郎家光申軍忠事、
右今年(觀應二)八月十八日、吉見参河守殿(氏頼)、當國三引保赤蔵寺被楯籠間、桃井刑部大輔直信以下凶徒押寄當陣、終日戰也、凡及御方難儀之間、爲後攻、將軍家御方、九月十六日、同國自大津長左衛門尉秀信打出間、屬家光被手、取三引保内曲松要害之處、凶徒等來當陣、日々合戰致無貳軍忠訖、(以下略)
    觀應二年  九月日       承了  花押(吉見氏頼)
赤倉神社鳥居

上記史料で分かるように、この時の吉見軍はかなりの苦戦を強いられており、幕府として援軍を派遣すべき状況に陥りました。9月16日、幕府から命令を受けた穴水城主長国連の一族、長左衛門尉秀信が、大津から援軍として出撃しました。

長秀信の軍勢は、三引保内の曲松要害の奪取に成功し、桃井勢と対峙しました。19日、桃井勢は三引南山に攻め寄せ、翌20日に桃井方の部将、小山田遠江掃部助の軍勢と三引山で合戦となりましたが、長秀信の軍勢は桃井勢を撃退しました。こうして体勢を立て直すことが出来た吉見勢は21日、桃井勢が本陣としていた敵城に攻め寄せ、漸く桃井勢を越中に追い返すことに成功しました。上記史料によれば、この時長秀信の家臣長野家光が頸骨に矢疵を被っています。(左の写真は、赤蔵山麓にある赤倉神社の鳥居。下の写真は赤倉山より田鶴浜方面を望む)

赤蔵山山頂から

北陸で勢力を拡大した足利直義は、関東を制圧すべく鎌倉に向いました。足利尊氏はこれを追撃し、東海道の各地で直義の軍勢を破り、12月29日足柄山で直義軍を撃破しました。翌観応3年(1352)1月5日、尊氏は直義と和睦し、直義を鎌倉に幽閉しますが、2月26日直義は急死します。(尊氏による毒殺といわれている。)

足利直義の死後、北陸では幕府による勢力回復の努力がなされ、得江氏や得田氏に対し、所領安堵と引き替えに忠誠を募る下文が発せられています。また、能登守護として新たに吉見氏頼が任命されました。新守護吉見氏頼の下、能登の武士団は再結集され、吉見氏は前守護桃井義盛と協力して、越中の桃井氏や井上氏、能登島の長一族などの反幕府勢力の掃討に乗り出すことになります。