■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルのロゴ

トップ>>サイトマップ>>能登吉見氏の系譜と事歴>>現在のページ

■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

08.第1次桃井直常討伐

和元年(1352)6月、能登を抑えた吉見氏頼は、いよいよ反幕府方の前越中守護桃井直常討伐に乗り出します。桃井直常は越中守護を罷免されたとは言え、依然として勢力を保っており、しかも替わって守護となった(復帰した)井上俊清も、反尊氏方として直常に協力していました。

(第1次桃井直常討伐関係地図)
第1次桃井討伐関係地図

6月6日吉見氏頼の軍勢、桃井直常討伐の為越中へ発向する。桃井勢は、木谷(氷見市稲積)・獅子頭(氷見市)・三角山(氷見市阿尾)・千久里(氷見市中尾)・氷見(氷見市朝日丘)に城砦を築き、吉見勢に備える。吉見勢は横河保芝峠に陣取り、攻め寄せる桃井直常・直信・直和等の軍勢を撃退。
6月8日吉見勢、桃井方の水谷城(氷見市柿谷)を責め落す。
6月9日吉見勢、木谷・獅子頭・三角山を攻撃、鶉塚に布陣する。
6月14日桃井勢、吉見勢を攻めるため、氷見湊に兵を集結。よって吉見勢は氷見湊を夜襲し、桃井陣に放火。
6月15日吉見勢、三角山(城主は常門新左衛門尉)を攻撃。木谷・千久里・獅子頭等から駆け付けた桃井勢も撃退する。
7月1日吉見勢、木谷城麓の尼坂において、桃井勢と交戦し、敵を城中に追い返す。
8月12日吉見勢、再び尼坂において桃井軍と交戦。

一旦戦闘は終息しますが、翌文和2年(1353)4月5日、桃井直常・直信が軍勢を率い、越中芝峠に現れました。この時も、吉見氏頼を大将とする吉見軍が応戦し、桃井勢を撃退しています。

●『天野文書』●
天野安藝三郎遠政代堀籠六郎左衛門尉宗重申軍忠事、
今年(文和二)四月五日、桃井播州(直常)、并刑部大輔殿(直信)、民部少輔殿(直和)以下凶徒、寄來同國芝塔下之間、捨身命致合戰忠節畢、此等次第、大將直御見知之上者、賜御證判、爲備後證、恐々言上如件、
    文和二年  六月日       承了  花押(吉見氏頼)

その後、桃井勢は能登への対応策として、能登島西方地頭の長伊勢守胤連と結びました。長氏は鎌倉時代初期に大屋荘の地頭として三河から下向した奥能登の有力国人で、近いところでは、5代目当主長九郎左衛門尉盛連が吉見頼隆の娘を娶っており、6代目国連及び一族の秀信は吉見氏に属していました。(前述の赤蔵山の戦い)