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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

09.長胤連の討伐

和2年8月、吉見氏頼は嫡男の修理亮詮頼を大将として、能登島の長胤連討伐の為、軍勢を派遣しました。

長胤連討伐討伐関係地図
金頸(向田)城案内図

長胤連が拠る金頸城(別名向田城)は、現在の能登島町向田にあった城で、小高い小山が海に突き出た形の天然の要害でした。金頸城には長胤連一族の他に、先の盟約に従って、桃井兵庫助直和の軍勢が援軍として越中から参陣していました。

8月28日、吉見詮頼は兵船をもって能登島に上陸し、鴨島入江及び飯浦(現半浦)で長・桃井連合軍と合戦に及びました。翌29日、吉見軍は向田村にある長氏の居館に押し寄せてこれを焼き払ったので、長胤連は金頸城に籠城することになりました。9月に入り、詮頼は一口駒崎に陣を進め、金頸城への攻撃を開始します。日付は不明ですが、一連の合戦において長胤連は討死し、金頸城は落城しています。ただ長胤連は討死したものの、いまだその残党が勢力を維持しており、文和4年(1355)に再び金頸城攻めを行うことになります。

義父足利直義の死後、勢力が衰えていた足利直冬は、文和3年(1354)秋、同じく南朝に帰順した山名時氏と共に京を目指しました。これに呼応して越中の桃井直常は北方から、河内の楠正儀は南方から京に迫り、幕府軍と南朝軍の戦端が開かれたのが、文和4年1月16日です。この時吉見氏頼の軍勢は越前三国湊に侵攻し、桃井直常が制圧していた越前三国湊を奪回します。

●『得田文書』●(松雲公採集遺編類纂百三十五所収)
能登國得田又五郎章名申軍忠事、
右、當年正月廿日、屬于吉見三河守殿御手、爲桃井播摩守後攻發向越前國、同國金津庄内押寄溝江城并堀江城・三國湊城、同三月四日、致合戰責落畢、是等次第、里見左京亮殿御見知之上者、賜御證判、爲備後證、言上如件、
    文和四年  三月 日     承了   在判(吉見氏頼ヵ)
金頸城(南側)

「爲桃井播摩守後攻」とあるように、三国湊に侵攻することで、桃井直常の背後を衝き、幕府軍を援護する意図があったのです。結局、京都における攻防戦は幕府軍の勝利に終わりますが、それと時を同じくして、長胤連の残党が桃井氏と通じて能登島で蜂起しました。

今回も吉見詮頼を大将とする軍勢が能登島へ発向しました。合戦は3月17日に始まり、20日及び22日の吉見軍による攻撃の後、両軍数十日対峙する状態が続きました。6月14日、吉見軍は金頸城に夜襲を仕掛け、遂に金頸城を落とし、長胤連の残党は滅亡しました。(上の写真は、海側に突き出た金頸城の北側部分を撮影したもの)

●『天野文書』●(加賀前田家蔵)
天野安藝守遠政代堀籠六郎左衛門尉宗重申軍忠事、
右凶徒長伊勢守胤連之一族家人等、楯籠當國能登島西方金頸城之間、今年(文和四)三月十七日、押寄彼城取向陣、毎日合戰之忠、同六月十四日、夜追落城之刻、甥左衛門三郎遠行被疵右肱射疵、畢、然早賜御證判、爲備後證、恐々言上如件、
    文和四年  七月日       承了  花押(吉見氏頼)
金頸城全景

長胤連が滅亡した後、延文2年(1357)7月に能登島東方地頭職が天野遠政に安堵されました。また、能登島西方地頭職は、貞治3年(1364)、吉見氏頼の弟義頼(伊予守・入道玄幸)に与えられています。(左の写真は、金頸城の全景を東側から撮影したもの)