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02.薩摩の吉見氏

(1)加世田郷大浦村の吉見氏

摩藩には門割制度という独自の土地支配制度があり、村は長たる名頭(みょうず)と名子である家部から成るという単位に分かれていました。加世田郷大浦村の中央に位置する長田門の名頭が吉見家です。

門割制度においては、藩は100余りの郷に分けられ、郷は数ヵ村に、村はいくつかの方限(組)に分かれ、更に門に分けられた。藩は年貢や賦役を門単位で課した。門単位で年貢や賦役を課すことにより、毎年安定した年貢徴収が可能となったのである。藩にとって利益であるとともに、農民にとっても負担が分散するので好都合な面があった。尚、石高30石以上を門と呼び、それ以下を屋敷と呼んだ。門自体は鎌倉時代から見られるようである。

長田門の吉見家は代々伊作島津氏に仕えていたと言われますが、源兵衛範重以前の歴史は不明です。同家の系図によると、範重代に島津忠良日新公)から長田門の門主(掟役)に任ぜられ、長田門に移住したとされます。

天文7年(1538)12月、島津忠良は加世田城(別府城)を攻撃し、翌年正月1日にこれを陥しましたが、範重は子の源太兵衛範則と共にこの合戦に参加したと考えられます。範則は合戦の恩賞として、「長盛ノ刀二尺六寸」を賜りました。恐らく吉見氏が長田門の門主に任ぜられたのも、合戦の恩賞とみられます。

ところが範則の子源太兵衛胤親の代になると、「身上逼迫申百姓役仕罷居候」という状況となりました。つまり士分を捨て、帰農したということになります。天文23年(1554)、島津忠良は長田門全てを保泉寺に寄進し、長田門は保泉寺の寺領となりましたが、このことが吉見家の身上に影響を与えたとも考えられています。

●『加世田再撰帳』●
奉寄進
薩州加世田庄内之事
 合大浦名長田門
右所志者依法花萬部読誦之儀、建立一宇堂、安置 地蔵薩捶并石塔、永代不可違却之者也、
 天文二十三甲寅年二月二日
      嶋津前相模入道日新(花押)
保泉寺
 住持盤忠
     衣鉢禅師

保泉寺は忠良の没後、7代住持梅安和尚が日新寺と寺号を改めた。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、1873年に忠良を祀る竹田神社として再興された。

しかしその後も、島津忠良と吉見家との関わり合いは非常に深く、忠良が狩りに出かけた際は、必ず吉見家を訪れ別宅のように休息したと云います。永禄11年(1568)忠良は77歳で没しますが、その際位牌を吉見家宅に安置するように遺言しました。また、日新寺の住職に対しても、毎年1回供養の為に吉見家に出向くことを仰せ付けました。忠良の位牌は現在もとして永田の吉見家邸内の「日新祠堂」に安置されています。

(2)吉見家の系図と出自

長田門の吉見氏の系図には「名頭吉見家系図」「吾平在郷吉見家家譜」という史料があるようですが、公刊はされていないようです。「御検地名寄帳」や「宗門人別改帳」等の史料から作成した吉見家の系図は下記の通りです。

長田門名頭吉見家系図

既に述べたように、源兵衛範重以前は不明です。長田門の吉見家は分家筋で、上前屋敷の吉見主税家が本家筋になります。

加世田の吉見氏の出自としては、代々伊作島津氏に臣従していた土着の武士という説がありますが,枕崎市の郷土史家八代新一氏は、「大浦町の吉見家と宇留島家は天智天皇の発する系図を共有し」と著書で述べられています。(「大浦町の古文書」に収録されている宇留島氏系図は平姓千葉氏から出ている。いずれも後世の作成の可能性が高いと思われる。)宇留島家は修験道の家柄で、 久志地権現社はその護持宮ですが、久志の九玉大明神社(久志の総鎮守)・今峯拾二所権現社の社司に吉見氏の名が見え、或いは吉見氏も神官の家柄で、その為宇留島氏と関わりがあるのかも知れません。

(3)史料に見える薩摩の吉見姓の人々

史料に散見される薩摩の吉見姓の人々を列挙してみたいと思います。ほとんどが久志の人で、長田門の吉見氏の一族と思われます。

九玉大明神社(久志村総鎮守) 社司吉見某
今峯拾二所権現社 社司吉見某
久志の浦役 吉見八十郎彦兵衛
坊泊の曖役 吉見源太兵衛(嘉永年間)・八郎兵衛(寛延年間)
郡見廻 吉見仲右衛門
郡見廻 吉見仁左衛門(天保頃)
薩摩藩士? 吉見宗左衛門
薩摩藩士(蘭学者) 吉見左一郎