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■■■範頼流吉見氏の起源■■■

01.吉見氏の起源

在吉見氏の系図として少なくとも10数種の系図が伝わっており、相互に異同が見られるものの、その何れも吉見氏の出自を清和源氏にして左馬頭義朝の6男、蒲冠者範頼としています。吉見氏の起源については、『諸家系図纂』所収の吉見系図に詳しく記されています。それによれば、源範頼の次男範圓・三男源昭が外曾祖母比企禅尼から、武州横見郡吉見庄を与えられ、範圓の子為頼に至って在地名をもって『吉見』と称したのが吉見氏の始まりとされています。

ところで、『吾妻鏡』文治3年(1187)10月13日条に、畠山重忠がその所領伊勢国沼田御厨を召し放たれ、その跡を吉見次郎頼綱なる者に宛行われていることが見えます。文治3年は、範頼が誅殺された建久4年(1193)を遡ること6年で、当時既に武州吉見を発祥の地とする吉見氏が存在したことになります。

●『吾妻鏡』文治三年十月十三日条●
太神宮領伊勢の国沼田御厨の土民等訴状を捧げ、去る比参着す。当所、元畠山の次郎 重忠に充て賜うの処、員弁大領家綱の訴状.に依ってこれを収公せられ、吉見の次郎頼綱に賜いをはんぬ。而るに頼綱また不義を巧み、民戸を追捕し、財宝を点定すと。仍 って今日沙汰有り。平民部の丞盛時の奉行として、早く彼の非據を停止せしむべきの 由、下知すべきの旨、山城の介久兼に仰せ遣わさる。征伐の御祈祷を抽んぜんが為、 以て急速の裁許に及ぶと。

更に『承久記』には、北条時房に随って近江国勢多の合戦に参加した吉見十郎小次郎父子が見えています。はたして『吉見系図』に記された吉見氏の起源に関する所伝は本当に正しいのでしょうか。また、これらの吉見氏と範頼流吉見氏には何らかの関係があるのでしょうか。この問題について順を追って考えてみたいと思います。

角田文衛氏は吉見頼綱を吉見氏の祖と推定し、源範頼を祖とする所伝は信を描き難い、とされています。しかし、『保暦間記』永仁4年11月20日条に、吉見義世の謀叛に関する記事が見えますが、義世について『三河守範頼四代孫』と明記しており、吉見氏が源範頼の後裔であることは間違いないと思われます。問題は、範頼の後裔が「吉見氏」を称した経緯と、北条政権下で如何にして生き残ることが出来たのか、ということです。