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■■■範頼流吉見氏の起源■■■

02.源範頼と比企氏

安楽寺本堂

企氏は俵藤太藤原秀郷の後裔とされ、武蔵国比企郡(現東松山市付近)を本拠とする豪族です。源頼朝を初期から支え続けた御家人であり、特に頼朝の乳母であった比企禅尼が、蛭ヶ小島に流された頼朝に約20年に亘り食料や衣服を送り続けたことは有名です。このようなこともあり、比企氏は鎌倉幕府において最も有力な御家人として権勢を振るうことが出来たのです。

源範頼と比企氏の関係を見ると、先ず第一に、範頼の室安達藤九郎盛長女が、比企禅尼の孫娘であることが挙げられます。(比企禅尼の娘丹後内侍の子。)

第二に、平治の乱後、源範頼は平家の追及を逃れる為、比企禅尼の住持する安楽寺に稚児僧として隠れ住んだ、と伝えられています。

吉見氏・比企氏関係系図

第三に、源範頼居館(吉見氏居館)跡地(現在息障院の建つ場所)は安楽寺から数百メートルの所であり、比企禅尼と範頼の緊密な関係を思わせます。これらの事から、範頼の支持基盤の一つが比企氏であったと考えて差し支えないでしょう。

しかし、建久4年(1193)に範頼が誅殺された時、比企禅尼は既にある程度の高齢であったはずで、没年は不明ですが、それ程長期に亘って範頼の子孫を庇護出来たとは考えられません。しかも比企氏自体、建仁3年(1203)のいわゆる比企氏の乱で、北条氏によって滅ぼされています。

「諸家系図纂」所収の吉見系図に記載されるように、吉見範圓が比企禅尼から吉見庄を譲受け、為頼が在地名をもって「吉見」と号した、というのは現実的とは思えません。当初は比企氏の庇護があったとしても、範頼の子孫が『吉見氏』として存続するには、何か別の背景があったとみるべきではないでしょうか。