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■■■範頼流吉見氏の起源■■■

03.源範頼と小山氏

山氏は下野国小山庄を発祥の地とし、俵藤太藤原秀郷を祖とする名族です。代々下野国権大介職及び押領使を世襲し、東国屈指の勢力を誇っていました。治承4年(1180)源頼朝が平家打倒のため挙兵すると、小山政光の室寒川尼は嫡男朝政三男朝光を連れ、武蔵隅田宿の頼朝の陣営に参向しました。(この時小山政光は京都に居ました。)それは、寒川尼もまた比企禅尼と同様、頼朝の乳母であったためです。以後小山氏は源頼朝の有力御家人として幕政に参画して行きます。

この小山氏ですが、実は源範頼とかなり深い関係にあることが判ります。寿永2年(1183)2月、常陸国信太庄に居た志田義広(源為義の子息)が源氏の棟梁の座を狙い、源頼朝に対して謀叛を起こしました。(志田義広の乱)下野に進撃した志田義広は、下野国野木宮において、小山氏に敗れます。(野木宮合戦)源範頼も武州吉見からこの合戦に馳せ参じたと考えられています。ただ、当時は範頼の武将としての地位が未だ確立されていなかった為、小山朝政傘下の一部将として参戦を命じられています。しかし、その後範頼が宇治川の戦い一ノ谷の戦いで大将を努める等、武将の地位を確立すると、小山氏は常に範頼の指揮下に属することになったのです。

ところで、小山一族に『吉見氏』が存在することが知られています。『小山系図』によれば、小山政光の子息二郎朝信に、『初名朝信、武蔵国吉見太郎頼茂の家督、母は吉見頼茂の女』と注記しています。更に『結城系図』には、小山政光の子息に頼経を挙げ、『吉見三郎、武州住人、但し養子也』と記載されています。この内、二郎朝信は吾妻鏡に見える『吉見次郎頼綱』と同一人物と考えて良いでしょう。共に「二郎(次郎)」を称しており、吉見頼綱が小山一族であることは吾妻鏡の記述から明らかであるからです。『小山系図』にあるように、母方の祖父吉見太郎頼茂から吉見家の家督を嗣ぎ、頼綱に改名したと思われます。三郎頼経は、太郎頼茂と同族で、元々武州吉見の在地豪族だった吉見氏の出身でしょうか。

源範頼は、現在の吉見町御所にある息障院の地に館を構え、5代相次いで居住したと伝えられますから、当然在地豪族の吉見氏とも繋がりがあったと考えられます。