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03.丹波の吉見氏

波の吉見氏は氷上郡及び天田郡一帯に繁衍した名族です。家伝によれば、源範頼の次男三郎資重が、建久年間(承久年間とも)に丹波国鹿集庄(吉見庄)を与えられ、武蔵国から移住したことに始まります。現在も市島町や隣接する福知山市には吉見姓の分布が集中していますが、基本的に全て同族と考えて良いと思います。

(1)丹波吉見氏の出自

「吉見家系」によれば、丹波吉見氏の祖、三郎資重は源範頼の次男とされています。しかし、「尊卑分脈」や「系図纂要」などの吉見系図には範頼の子として資重は見えません。資重が範頼の子というのは後世の仮冒と思われます。

資重が武蔵国から移住したということを考えれば(吉見岩戸或いは岩戸吉見という所に居住していたと伝える)、資重も範頼流吉見氏と同じく武蔵国吉見庄に関わりのある吉見氏であることが推察されます。別項で述べたように、範頼流吉見氏以前に、武蔵国吉見庄を起源とする吉見氏が存在していました。鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」に見える吉見次郎頼綱や「承久記」に見える吉見十郎・小次郎父子などがそうですが、資重も彼らの一族であったのではないかと思います。一説に、資重は愛宕三郎と言い、畠山重忠の嗣子であったとも伝えられています。畠山重忠の嗣子云々はともかく、「重」の字は畠山氏が属する秩父党の通字であり、秩父党に縁のある人物であったことも考えられます。

(2)丹波吉見氏の歴史

丹波吉見氏のは元々吉見岩戸(岩戸吉見)という所を本拠としていました。これは武蔵国吉見庄のことで、岩殿山安楽寺に「天の岩戸」と呼ばれる岩窟が存在します。建久4年(1193)、源頼朝は関東武士3万騎を率いて、富士の裾野で大規模な巻狩りを催しました。これは曽我兄弟の仇討ちで有名な富士の巻狩りですが、資重はこの巻狩りで鬼(鬼のような獣ということであろう)を捕らえて、その褒美として丹波国鹿集庄(吉見庄)を給わりました。こうして資重は8人の子息と共に地頭として丹波国鹿集庄に下向することになったのです。

「吉見岩戸」は岩殿山安楽寺三重の塔の脇にある岩窟「天の岩戸」のことであろう。安楽寺の前身は、行基が聖観音像を刻み、岩窟に納められたことに始まる岩窟寺院である。その後坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝祈願に立ち寄った際、部下達に岩戸を開かせようとしたが開かず、観音に念じたところ忽ち岩戸が開いた、という伝説がある。因みに聖観音像は領主吉見兵庫介の守り仏だったと云う。

資重の子息8人兄弟は「吉見属」或いは「吉見八属」と呼ばれていた。

丹波吉見氏の史料上の初見は、建武3年6月の片山高親軍忠状です。すなわち、足利直義が後醍醐天皇の籠もる比叡山の行在所に迫り、西坂本・雲母坂で南北両軍が合戦に及びましたが、その軍忠の知見者として吉見小三郎が見えます。

●『片山高親軍忠状』●
片山彦三郎高親申軍忠事
去六月上旬、山門西坂本御合戦之時、同九日責上雲母坂、一城戸口致昼夜忠勤畢、同十九日致散々合戦處、家子竹鼻平四郎親康両所被疵左手股右膝口射疵、播差木三郎未弘被疵右ノ腿射疵、是等子細吉見小三郎、物部孫神太同所合戦之間、令存知者也、然早為後證、可下賜御判也之旨相存候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
   建武三年 六月日   平高親
  進上御奉行所           承了 花押(仁木頼章)  

片山高親は船井郡和智庄の地頭、物部(上原)孫神太は何鹿郡物部を本拠とする武士、仁木頼章は当時丹波守護でした。従って吉見小三郎も丹波の武士で、守護仁木氏に属して合戦に参加していたことが分かります。吉見小三郎は軍忠の知見者であることから、軍奉行や侍所のような立場であったものと思われます。

文和2年(1353)、吉見三郎とその一族が仁和寺大教院領鹿集庄領家職を濫妨しました。鹿集庄雑掌盛円は吉見一族の押妨を幕府に訴え、幕府は丹波守護に吉見一族による濫妨を停止するよう命じています。(「仁和寺文書」文和二年十月十七日室町幕府奉行人奉書)

その後の丹波吉見氏の動向は史料が無く分かりません。鹿集城(市島町上垣)を居城として一定の勢力を築き、戦国期には黒井城(春日町黒井)を本拠に氷上郡を支配した赤井氏(丹波三強の一家)に従っていたものと思われます。

織田信長が天下統一を目指し、将軍足利義昭との対立が深まると、赤井氏を始めとする丹波国人衆は足利義昭に味方しました。そこで信長は明智光秀を先鋒として、丹波平定に乗り出します。天正3年(1575)、明智光秀の軍勢は丹波に侵攻し、黒井城に拠る赤井悪右衛門直正を攻撃しました。この時は丹波三強の一家、多紀郡の波多野氏が突然離反し、明智軍は撤退を余儀なくされました。

天正5年(1577)、明智光秀は再び丹波侵攻を開始します。翌天正6年、光秀の従弟明智左馬助光春の軍勢500余騎が、黒井城や支城の友政城・鹿集城・誉田城などの城砦に迫りました。時の鹿集城主は吉見式部少輔則重でしたが、この時嫡子助太夫守重と大澤喜龍に兵を付けて黒井城に援軍を送っていたため、僅か70余騎で明智軍を迎え撃ちました。

則重は27代目とされているが、初代資重は鎌倉期の人物であり、27代目というのは代数が多すぎる。

こうして明智軍の猛攻の前に則重は討死、城にいた一族も城中に火を放って悉く自刃し、鹿集城は落城しました。嫡子守重は一族の再興を賭け、その後も黒井城に留まり明智軍への抵抗を続けます。しかし、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正が病死すると、天正7年(1579)8月9日、黒井城も明智軍によって落城しました。

生き残った吉見一族はその後、それぞれ武士を捨てて帰農し、現在の吉見家の祖となりました。また、守重の子助太夫治重は初代柏原藩主織田信包に仕えましたが、子孫はやがて帰農したようです。

(3)氷上郡の吉見姓由来

氷上郡中姓氏録」という史料に、氷上郡各地の吉見姓の由来が記されています。(あまりうまく纏まっていませんが参考に)何れも鹿集城主吉見氏の末裔です。

檜倉村の吉見家(青垣町檜倉)慶長の頃、吉見助太夫守重が竹田より来住し、村長となる。守重は正保2年(1645)3月4日没。法名は膽誓院改休。妻は寛永20年8月12日没。法名は長空妙雲。両名の名を刻んだ石塔がある。守重に実子無く、足立氏から嗣子が入った。
鴨庄上村の吉見家(市島町鴨庄)先祖を吉見備後守といい、鹿集城主吉見氏から分かれた一族。黒井城主赤井氏に仕えた。天正7年の黒井城落城時、黒井城の籠城兵として、吉見三太夫、吉見備後守、吉見伊代守がいた。備後守の子孫、本家吉見文内、分家要助、政五郎の3軒。備後守の妾腹の子孫、端という所に本家吉見庄衛門、他分家13軒。
また、鹿集城主助太夫守重の子孫、吉見久内。
小多利村の吉見家(春日町小多利)鴨庄上村の吉見家同様、吉見備後守妾腹の子孫。吉見理兵衛、忠兵衛、加四郎の3軒。
上田村の吉見家(市島町上田)助太夫守重の弟源太夫の子孫。源太夫の墓は、岩戸村の今寺にあるという。吉見十兵衛、善右衛門の2軒。十兵衛方に祖資重が富士の巻狩りに持参した籏が伝えられているという。則重の子治重は柏原藩主織田信包に仕えたが、子孫は後に帰農した。天田郡土師村(福知山市字土師)にも分家。
上垣村の吉見家(市島町上垣)資重の嫡男の子、与三太夫の子孫。鹿集城本丸の西南脇に墓がある。貞享4年から宝暦年間まで石碑に俗名が記されているという。本丸西裾に子孫が居住。吉見唯七1軒。倉部に吉見左兵衛。その子孫6代目吉見文治。分家林七など。
市原村の吉見家(青垣町市原)助太夫守重の子孫。吉見市左衛門1軒。その後中竹田に移るか?その他吉見平十郎。
下竹田村の吉見家(市島町下竹田)元々は下友政の依田(余田)監物の分家。子孫、孫兵衛は縁により吉見氏を名乗る。

「氷上郡中姓氏録」は、文化8年(1811)に天田郡六人部庄大内村の堀久左衛門の覚書を写したもの。

(4)丹波吉見氏の家紋

元来「一文字に桐」を家紋としていたが、吉見三郎資重が源頼朝より「一文字に片喰」の紋を賜ったという。(氷上郡中姓氏録による。)