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■■■幕臣・諸藩の吉見家■■■

02.宇和島藩士吉見家

和島藩士吉見家には、吉見長左衛門氏信(生国山城国)を祖とする吉見家(便宜的に吉見長左衛門家とする)と、吉見林斎政頼(生国不明)を祖とする吉見家(便宜的に吉見与惣左衛門家とする)の2家があります。(系図は由緒書の内容を系図化したものですが、一部親子関係に不明な部分があります。また、通称のみのものは名が判明していません。今後も調査を続け、随時更新・改訂します。)

(1)吉見長左衛門家

長左衛門氏信以前は不明。代々左膳・長左衛門を名乗る者が多い。初代長左衛門氏信は、初め村上周防守忠勝(越後村上藩、元和4年改易)に仕え、その後寛永3年に伊達政宗の肝煎で、宇和島藩初代藩主伊達秀宗に召出されたといいます。村上忠勝は家中騒動のため、元和4年(1618)改易となり、丹波篠山に配流となりました。その際、家臣二十数人が従ったようですが、その中に吉見家があったかは不明です。ただ、丹波篠山は山城国と隣接していますからその可能性は考えられます。

吉見長左衛門家系図
吉見氏信初中川吉左衛門。通称長左衛門。隠居名隆貞。生国山城国。初め村上周防守に仕え、その後寛永3年、伊達政宗の肝煎で、初代藩主秀宗に召出された。翌年二百石拝領。寛永7年加増五十石。寛永20年加増五十石、都合三百石。
吉見永従初薗崎八郎、或八郎右衛門。始め実父薗崎八郎右衛門氏常の跡を相続したが、願いにより吉見家を嗣ぐ。(家督二百石)宝暦9年家老職、七百石。宝暦12年、着座(執政次席)。
吉見氏就文化4年〜明治8年、59歳。実中川九郎左衛門次男。字氏就・永憲・永弼・永錫。通称元吉・逸馬・左膳・長左衛門。号松蔭・下野・友鴎。13歳で吉見家を嗣ぐ。伊達宗城が就封すると、その信任を受け、目付兼軍使として財政整理・海防強化など藩政改革を推進した。「蛮社の獄」で投獄され、脱獄後逃亡生活をしていた高野長英を密かに招聘したのも氏就である。宗城の意を受け、一橋慶喜の将軍擁立を図るが、安政の大獄で捕縛され、幕府より重追放の処罰を受ける。宇和島帰国後、藩主宗城は氏就に「伊能」への改姓を命じるが、これは氏就の忠節を讃えたもので、「伊達家忠能之臣」を意味している。文久2年大赦となり、2度の長州征伐には宗城の参謀として参加した。イギリス公使パークスの宇和島訪問に際しては応接主任を担当し、慶応4年正月着座(執政次席)、5月執政となり国事に尽くす。宇和島藩における「維新三功臣」の一人。

(2)吉見与惣左衛門家

系図によれば、与惣左衛門家は石見吉見氏14代吉見広長の子頼胤(次郎三郎・三河守)を祖としています。吉見広長は、元和4年(1618)8月25日、毛利輝元の暗殺を企てているとの讒言によって誅殺されますが、その時妾と男子3人も共に自刃して果てたとされます。従って頼胤の出自に疑問も有りますが、広長の子供達は年少であったために助命された可能性も考えられます。

頼胤には二子があり、嫡男与左衛門は安芸国佐西郡寺田村(現広島県広島市佐伯区大字寺田)へ、次男林斎政頼は伊予国宇和郡清水村(現北宇和郡鬼北町清水)にそれぞれ移住しました。林斎は寛永4年(1627)、柳生但馬守宗矩を通じて、宇和島藩主伊達遠江守秀宗に召出されました。(拝領二百石)

林斎には嗣子無く、原嘉兵衛義道(生国長門・寛永9年江戸にて召出、改吉見玄良)を聟養子とし、吉見家を相続させました。

吉見与惣左衛門家系図